薔薇を植えてみたいと思っていて、苗を探していたのだけど、普通の花屋さんには、薔薇の苗はあまりおいていない。この間、万博公園のなかにある民族博物館で「ソウルスタイル 李さん一家の素顔の暮らし」というのをやっていた。韓国の現代の普通の暮らしがそのまま、まるで空間のトンネルを抜けたかのようにすっぽりと切り取られていて、おもしろかった。一家がある日突然失踪して、そのままになったような暮らしが手にとるようにそこにあった。
その特別展の帰りに薔薇の展示会があって、真っ赤の薔薇の花をつけるというクリスチャンディオールという苗と、薄いピンクでほのかな甘い高貴な匂いを漂わせているマダムバタフライという苗(これは花も咲いていた)を買った。薔薇は私にとってまだ手の届かない植物のままだったが、なんだか少し近づいてきているようで、思わず買ってしまった。犬が駆け回り、子供たちが遊びまわる庭に、繊細な薔薇はなかなか場所を見つけるのが難しく、今もまだ植木鉢のなかにあって、落ち着ける場所が決まるのは少し先のような気がする。
近所の天然酵母のパン屋「楽童」のそばに大きな薔薇が毎年たくさんの花をつける。この間、盛りを過ぎた花のそばに、はいつくばっているおばあさんがいた。どうしたのかなと見ていると、曲がった背中をいっそう曲げて、落ちた薔薇の花びらを一枚一枚拾って掃除していた。「いい薔薇ですね、どれくらいになりますか」と尋ねると「20年くらいかねえ」と返事が返ってきた。
20年以上前から知っていてい、今はそば屋をやっている大好きなお店、「凡愚」が昔、ブティックや喫茶店をやっていたときから、そこの入り口の前に置かれた大きな植木鉢に芝桜が居心地よさそうに花を咲かせるのを見て、どうしたらこんなふうに花が咲いてくれるのだろうかと疑問だったのだけれど、今は少しわかるような気がする。
そういえば、コスモクロス(合気体操)で、先生が、代わる代わる「人の体に触れる前に、先に自分の側で作っているのですよ」「身を捧げるのですよ」と言われたときに、ドキッとした。
誰かにご飯を作ることも、お花に水をあげることも、誰かがくる前に掃除をすることも、玄関に水をまくことも、商売をすることも、すべて同じ<域>なのかもしれないなあ。