「モモの家で幼稚園をしようよ」
5年程前、幼稚園に行かなくなった息子のことで悩んでいた私に、ぎのりえさんはそう言った。子どもたちを育てる場としてここを借りたんだよ。今はできていないけど子どものことはいつかやってみたいこと・・・そのようなことを言っていたように思う。
びっくりしたのとうれしかったのとで泣いてしまった。
自分の子どものことは自分で何とかするものと思い、子どもに現れることは全部自分のせいだと自分を責めていたけど、どうすればいいかわからない、それに息子が何を考えているのかまったくわからなかった。
モモではじめる幼稚園のことをぎのさんと話しているうちに目の前が明るくなっていき、わくわくとしている自分を感じた。
そのときは「モモ幼稚園」は実現することはなかったけど、息子ではなくわたしがモモに通うことになったのかもしれないと思う。どういうわけか私は小さなときに学びそびれたことをモモの家を取り巻く人間関係と日々の仕事の中で体験していった。
この春から「学校の授業がわからない、おもしろくない」という中2の息子と小5の弟と水曜の夜、モモの家に行くようになった。「まなぶことっておもしろいことのはずやん!英語ならおしえたげるよ」というぎのさんの声につられて。今は自主勉強という形で宿題をしたり、問題集をしたり。(それから犬のどんぐりとあそんだり。。。)静かな夜のモモの家で集中する。けっこういい。
もっと他にも誰かきたらいいのになあ。息子たちは子どもきてほしいって言ってるけど、わたしは大人も自分が学びたいことをできる場ってあるといいと思う。インプットしたことを時にアウトプットできる、個人で学習する時間は大切だけど週に1度学びあいの場があってもいい。
夏休みの1日の8月10日、モモの家で朝から夕方までそんな時間が実現した。手事をしたり、参加者のおじいさんの体験した戦争の話を聞いたり、みんなでいっしょにご飯を作ったり、インドネシアの言葉に触れたり、希望者は石のはんこを彫ったりした。
初めて参加した88歳のHさんは耳が遠く、そして伝えたい思いがいっぱいあって、少し話が長引いてしまったり、分かり合いたいけどなんだか誤解のようなこともあったり、すこしもめたりもした。
けれど最後には願った以上のものがやってきたようなすばらしい時間だった。