木をどれくらい切るかという話をしているとき、直前にわいたイメージが口をついてでてきた。「10年前の庭の状態を考えたのだけど、こんなに木が茂っていなかったと思うのね、そのくらい、切ってしまったらどうだろうか」
人にものを伝えるのって、難しい。自分が手を出せない仕事のときはなおさら。的確な気持ちが伝わってさえいれば、あとはひたすらそれを待つだけだという気がして、私は、木に登っている男の人たちがひたすら事故の無いように、そばで遊んでいる子どもたちが怪我をしないようにと祈りながら、料理をしていた。
私の懸念も何のその、地下足袋をはいたMさん、普通の靴のO君が、のこぎり片手に木に登り、どんどん、枝を落としていく。下では、くーちゃんの夫くんと、奈良から電動のこぎりを手にやってきてくれたIさんが、落ちた枝をひたすら細かく薪にしていく。
午前中に、くすのきはほぼ完了。庭を見て驚いた。すっかり明るくなっている。木の枝がこんなにも日光をさえぎっていたのだ。広間も以前に比べて明るい。ゆっくりとしたランチのあと、O君が持ってた手作りのハープを奏でている。くーちゃんの手炒りのコーヒーを飲んで、午後からは塀のそばの木の剪定とお隣さんの桜の木の剪定。
一人暮らしの老人が住むお隣の庭から伸びた桜の木が、路地の半分くらいのところまで張り出していた。「今度の日曜日に仲間が木を切ってくれるので、ついでに切って貰いましょうか」と声をかけた。「おいくらぐらいいりますか」とまず聞かれた。「いえいえ、私もお金を払えないので、お昼ご飯をご馳走するくらいなのですけれど・・」と答えた。
気持ちの良い日差しで目覚めた日曜日の朝。ぽつりぽつりと人が集まり、大きな変化が起きた。木の間から見える空が大きくなった。庭に山のようになった木の枝とはっぱの海。お礼にお隣からいただいたビールで乾杯。お隣の桜の枝と、積めるだけのモモの庭の枝を積んで、Oさんは八尾の山に帰っていった。
くーちゃんとしほさんらと、「木を切るって、楽しいね」って話した。大きな木を切ることも、たくさんの人に来てもらう準備をするのも、切った木の後始末もとっても大変だけど、大変な分、なんだか充実した気持ちがある。
植木屋さんが来て、台風のごとく仕事をしていって去っていったときに、なんだかさみしかったのとは違っている。